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市長の部屋

印刷用ページを表示する更新日:2018年5月21日更新 <外部リンク>

市長あいさつ

 小山市長大久保寿夫  

ようこそ小山市のホームページへ! 小山市長の大久保寿夫です。
小山市は、2016年、リオデジャネイロオリンピック2016において、金・銀・銅の3個のメダルを獲得した競泳の萩野公介選手、銅メダルを獲得した柔道の海老沼匡選手をはじめとする世界を舞台に活躍する『人』、2012年、世界のラムサール条約に湿地登録された渡良瀬遊水地をはじめとする豊かな『自然』、2010年、世界のユネスコ無形文化遺産に登録された本場結城紬をはじめとする古い『文化と歴史』を有し、特に、戦国の乱世に終止符を打ち、徳川300年を決定付けたと言われている天下分け目の軍議『小山評定』の開かれた『開運のまち』です。
 
小山市が、日本の運命を切り開き、栄光の道筋をつけたまさに『開運のまち』であることを紹介させていただきます。

徳川家康は、慶長5(1600)年7月24日、会津の上杉景勝討伐に向かう途上、小山市に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、25日、急遽家康は、「このまま上杉を討つべきか、反転西上し、石田を討つべきか。」、本陣に諸将を招集し、軍議を開きました。これが世にいう『小山評定』です。
家康に従う諸将は、豊臣家譜代が多いうえに、大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目でした。しかし、遠州掛川城主の山内一豊の「居城を家康に差し出してまでも味方いたします。」という強い建議が、豊臣恩顧の諸将の気持ちを動かし、家康を救いました。家康は、この時の山内一豊の建議を「古来より最大の功名なり。」と賞しています。家康率いる東軍は、石田三成討伐のため西上することに決したのです。
そして、9月15日、関ヶ原に、東西両軍約20万の軍勢が相まみえ、天下分け目の戦が繰り広げられましたが、結果は、家康率いる東軍の勝利でした。
その直接の原因は、西軍小早川秀秋らの土壇場での寝返りでしたが、西軍は当初から足並みが揃っていなかったのに対し、東軍は結束しておりました。この東軍に結束をもたらしたのが『小山評定』でした。もし、『小山評定』がなかったならば、東軍は結束することができたでしょうか。このようにしてみると、家康が勝利を収めたのは関ヶ原であっても、その栄光の道筋は、小山からはじまったと言っても過言ではないでしょう。『天下分け目の関ヶ原』とよく言われますが、実は、『天下分け目の小山評定』だったのです。
徳川300年の泰平の世は、『水と緑と大地』の豊かな私たちのふるさと、この小山から始まったと言えるのではないかと思います。まさしく小山市は、栄光への道筋をつけた『開運のまち』と言えるでしょう。
この素晴らしい小山の歴史を小山ブランドとして、『開運のまちおやま』を全国に発信していきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
小山市長大久保寿夫

小山市役所敷地内にある小山評定跡の石碑