ブックタイトル広報小山2021年2月号
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広報小山2021年2月号
シリーズ小山の歴史№202神鳥谷の起源難読な「神鳥谷」は、現在公称では「ひととのや」と呼ばれていますが、もともとは「しととのや」だったとの説があります。▲交差点の標識ごうそんてんぶん小山領の郷村が記載された天文5(1536)年のおやまたかともいせやくせんさんようじょううつし「小山高朝伊勢役銭算用状写」が史料上の初見で、「しとゝのや」と記されています。江戸時代に入った寛永わりつけ19(1642)年の「小山領ぬか・わら割付」には「かん之谷村」とあり、寛とし利しげ重はん宛の「領地判ぶん文こ4(1664)年の古もつ物・目録写」には「が河はん藩しゅ主かんど土えいい井谷村」とみえます。現在のように「神鳥谷」と記されるになったのげんろくは、元禄げん14(1701)年の『元記されてからのようです。ろく禄ごうちょう郷帳』に村名が列▲江戸時代中期の古文書にみえる「神鳥谷村」様々な説実は、「神鳥」の読み方には「しとと」と「しとど」の2通りがあり、厳格には「しとと」の方が古く解釈も違いますが、似た意味もあり混同されています。1、ししと(地形)説『広辞苑』によれば、ひどく濡れるさま、じとじとの意味があると説明されています。これを地形に照らし合わせると、川や谷が当てはまります。神鳥谷の小かめくぼいちのくぼ字に「亀久保」、「一ノ久保」(現公園)などがあり、「久保」は窪地の「窪」との関連を連想させます。また、しばうちなかしべ「柴内」、「中渋辺」などの崖地に関連する地名がありしもつがぐんします。さらに、『下都賀郡誌』に「この辺を谷津やつ(台地が侵食された谷状の地形)と呼び神鳥谷となった」とあることから、思川からの伏流水がつながっていたとも考えられます。これらのことから、「しととの谷」と呼ばれるようになったのではないかと推測できます。かんなぎとり2、しとど(巫鳥)説かんなぎとりしとど「しとど」は巫鳥・鵐と書いて、ホオジロの異称またはスズメなど小鳥類の総称の古名で、「みこどり」ともいいます。かんなぎ巫鳥の「巫」という字は、神に奉仕する人々を指します。神鳥谷も、巫を神の文字に当てて神鳥と書き表わし、神鳥谷を「しととのや」と読むようになったとも推測されます。だいにっぽんちめいじしょ『大日本地名辞書』では神鳥について、「シトト」の読みがあるとしています。また、平安時代に編纂されしととた辞書には、巫鳥を「之止止」と記し、また別の神道に関する資料にも、神に祈って神意を伺う者を指す言葉であると記されており、「巫(神)」との関連について言及しています。また、それらの小鳥類は、全国に分布する身近な野りゅうちょう鳥で、基本的には長い渡りはしない留鳥です。天保年にっこうどうちゅうりゃくき間(1830~44年)の『日光道中略記』には、「村名の起こりは、この辺にこの鳥多く住みしより地名になり」と書かれています。わしじんじゃ3、西林寺(鷲神社)伝承説しもこうべゆきよし小山氏の始祖政光の弟に下河辺行義がおり、その子かいぎの僧「光仏」が西林寺の開基となったといいます。一むさしのくにおおたのしょう族発祥の地である武蔵国太田庄(埼玉県久喜市付近)わしのみやじんじゃかんじょうに鎮座する鷲宮神社を勧請して寺の付近に建立したので、鷲を神鳥としてシトトと読む、との伝承があります。かくいんけんじゃほうし下河辺行義の子に覚因賢者法師という僧がおり、さしょうじゆきみつしんらんげこうらに寺伝では、行義二男の庄司行光が親鸞下向の折りきえこうぶつぼうに帰依し、光仏房と称して西林寺を建立したとしています。『栃木縣史』にも「小山神鳥谷西林寺、開基光仏房は下河辺行義二男なりと云う」とあることから、この光仏房が下河辺(庄司)行光に該当すると思われとじょうます。鷲神社は鷲城(外城)内に祀られていますが、社殿が南向きなのに対し、参道は東側から社殿の側面に行きあたる特異な配置になっており、太田庄の鷲宮神社を模倣しています。小山歴史研究会菅間久男広報おやま2021.2 11