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概要

広報小山2021年6月号

シリーズ小山の歴史№204ご二つの御てん殿絵図今回は、江戸時代の小山にかかわる絵図2点を紹介します。いずれも市内に残しゃさんされたもので、将軍家による日光社参の際に休泊施設として使用される「御殿」の絵図です。おやまごてんえず小山御殿絵図こ古がじょうにのまるごてんえず河城二之丸御殿絵図(部分)※いずれも個人蔵・小山市立博物館寄託1.小山市指定文化財小山御殿絵図小山御殿は江戸時代前期、現在の御殿広場にあった施しゃさん設で、日光社参の往復路において将軍の休憩施設としてげんなひでただ使用されました。元和八年(1622)、二代将軍秀忠のひょうじょう日光社参のおりに小山評定の吉例にならって造られたいえみつといわれ、秀忠や三代将軍家光がここで休息して昼食をいえつなだいなごんとり、四代将軍家綱は大納言時代に宿泊もしています。たて絵図によれば御殿は竪35間(約64m)・横55間(約100m)で、日光街道の西側に、思川の崖を背にして建てられていました。将軍が休息する「御殿」の間のほか、ごもんおなりもんばんしょ玄関、台所、広間、御門、御成門、番所などの配置が記さどるいれています。また、堀や土塁をめぐらし、15ヶ所の番所があるなど、厳重な配置となっていることが分かります。2.古河城二之丸御殿絵図古河城の二之丸御殿は、通常古河藩主の居所として使われた施設ですが、将軍社参の際には岩槻城・宇都宮城ととぶんせいもに将軍の宿所とされました。写真の絵図は、文政八年いえなり(1825)の実施が計画された十一代将軍家斉の日光社参にござしょおいて、将軍御座所の増築計画や、家臣らの部屋割りを書おおじょうやき込んだものです。古河藩の大庄屋(村をこえた広い地域じかたたなみにおかれた地方役人)を務めた田波家に残されました。社参の二年前にあたる文政六年から絵図作成がはじまみずのでわのかみただあきらり、老中水野出羽守忠成が見分に来た際の導線が朱書き・墨書きされています。増築予定の部屋も朱書きされ、社参時の部屋割りが付箋に書き込まれて貼り付けられています。ござしょゆどのようば将軍の宿所「御座所」や将軍用の「湯殿」・「用場(便所)」などは新築される予定で、御座所を囲むように配わかどしよりそばようにんめつけろうじゅうされた中央部に老中・若年寄や側用人、各奉行、目付、こしょう小ゆうひつおかちごしょいんばん姓、右筆などの部屋が、その外側に御徒や御書院番、おこびと御小人部屋等が割り振られています。こうして準備が進められた家斉の社参でしたが、実施の前年、文政七年十月になって延期が発表されています。延期の理由は水害のためとされます。実際この年諸国で水害が発生、特に同年八月の洪水では古河の被害が大きく、この絵図の古河城二之丸も床上浸水しています。社参準備は台無しになったのでしょう。これをうけ日光までの道途が検視され、延期の判断がなされたのです。なおこの時は延期と発表されましたが、翌年の社参も立ち消えとなりました。3.両絵図の共通点さて、2つの絵図を見比べると、古河城二之丸御殿絵図の将軍御座所周辺の中心部分が、将軍の導線を含め、小山御殿と似た造りになっていることに気づきます。これは、将軍の御座所となる両御殿は江戸城本丸御殿の機能を模して造作されているからです。これにより小山御せし殿は将軍の昼食場として適し、将軍家世子の宿泊所としても使うことができる施設となりました。なお古河城二之丸御殿の絵図はそれ自体希少なもので、このような将軍の宿所を明示する図が市内の大庄屋に残されたということはとても興味深いことです。現在市立博物館では、6月20日(日)まで企画展「日光山と小山」を開催しています。今回ご紹介した2点の絵図も展示しておりますので、ぜひご来館いただき、本物をご覧ください。小山市立博物館学芸員尾上仁美8広報おやま2021.6