ブックタイトル小山市制施行60周年記念誌

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概要

小山市制施行60周年記念誌

4Oyama history小山の歴史山郷を本拠として小山氏を名乗るようその子孫の政光は、下野国都賀郡小下野守と武蔵守に任ぜられました。でした。秀郷は、その軍功を認められ、討ったのが、下野国の武将・藤原秀郷ました。天慶3(940)年に将門をの武将、ぎ始め、平将10世門紀がに朝入廷るにと反関乱東をで起はこ下し総9世紀後半になると律令国家は揺らす。賀郡10郷の一つとして紹介されていまされた「和名類聚抄」です。小山は都が初めて登場したのは平安時代に編纂ました。史実において小山という地名安蘇、足利、梁田といった郡が置かれ那須、塩谷、芳賀、河内、都賀、寒川、による地方行政が始まり、下野国にはに大宝律令を定めます。国・郡・里(郷)み始めた日本は、大宝元(701)年改新によって律令国家としての道を歩大化元(645)年に起きた大化のとを物語っています。古代の下野国の中心的な場所だったこ造られました。これらの古墳は小山が支天塚古墳など大規模な前方後円墳が古墳時代になると、琵琶塚古墳や摩利石器時代のことと考えられています。住み始めたのは、およそ3万年前の旧した石器の研究によって、小山に人が市内にある寺野東遺跡などから出土小下山野氏国を治めた西上することを決断。この「小山評定」せが入り、急遽翌日家康は軍議を開き、た。このとき、石田三成の挙兵の知らた徳川家康は小山に本陣を構えまし津の上杉景勝を討つために北慶長5(1600)年7月上し24日て、い会交小通山の評要定衝かとらし始てまのる発展した。にわたっれ、天正て支18(配1し5た90小)山年の、地約を4失0い0ま年氏滅亡とともに豊臣氏に領地を没収さ田原北条氏に味方した小山氏は、北条名跡を受け継ぎました。戦国時代、小は結城泰朝が祇園城に入り、小山氏のは断絶に追い込まれたのです。その後義政と息子若犬丸は自害し、小山宗家き、鎌倉公方から討伐を受けました。小山義政が宇都宮基綱を討つ事件が起が、永徳2・弘和2(1382)年、いて、小山氏は勢力を保ち続けましたす。南北朝時代とその後の戦乱期にお利尊氏らによって鎌倉幕府は滅亡しま正慶2・元弘3(1333)年、足どの要職に任ぜられました。の長男はじめ子孫は、下野国の守護なて頼朝から「地頭職」に任じられ、そ「女性たりといえども大功あり」とし妻で、源頼朝の乳母であった寒川尼は、数々の戦で軍功を挙げました。政光の任厚く一の谷・壇の浦をはじめとするになりました。小山一族は源頼朝の信小山市出土の縄文土器左:寺野東遺跡出土土器(中期)下:乙女北浦遺跡出土土器(晩期)(市指定文化財)小山評定跡(市指定文化財)飯塚31号墳出土埴輪(左から)「右手をあげる女子」「威風堂々の男子」(市指定文化財)乙女不動原瓦窯跡琵琶塚古墳・摩利支天塚古墳24