ブックタイトル小山市制施行60周年記念誌
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小山市制施行60周年記念誌
4 Oyama history太古の時代から人々が暮らし、交通の要所として栄えてきた小山。その歴史をひも解いていくと、この地域が日本の政治や産業においていかに重要な役割を果たしてきたかを知ることができます。そんな興味深い小山の歴史を写真とともに紹介します。(良質の蚕を飼養し、その卵を紙に生んになり、それを支える養蚕や蚕種業れるようになりました。生糸産業が盛を中心とする原材料品が大量に輸出さのです。本格的な貿易が始まると生糸200年以上にわたった鎖国を解いたとそれに続く欧米列強からの圧力で商条約が結ばれました。黒船の来航安政5(1858)年、日米修好通工文業明の開街化・が小拓山いへたの道飯塚宿が整えられていきました。田宿、新田宿(羽川)、日光西街道の日光街道の宿駅として、小山宿、間々泊施設が「小山御殿」です。小山には、が東照宮を参拝する折に設けられた休た。小山評定の吉例にならって、将軍照宮を参拝する人も増加していきまし全国の街道が整備され、家康を祀る東その後、参勤交代制の確立によってを往来するようになりました。き、年貢米や塩、油などが江戸との間山は河川交通の要所として発展してい陸揚げが行われました。こうして、小送路として思川が使われ、乙女河岸でいました。社殿の造営で使う物資の輸山に小堂を建て、改葬するよう命じて家康は死後一周年の後に、下野国日光和2(1616)年に死去しました。江戸幕府を樹立した徳川家康は、元です。下に分よけっ目ての東関軍ヶは原結の束合し戦、で9勝月利す15日るのの天谷村昭和が合29(併1し9、5小4山)市年がに発、足小し山ま町しとた大。革や農地改革が行われていくなかで、ます。第二次世界大戦後、地方自治改が小山に進出し、工業化が進んでいき初期には製紙や製粉、製菓などの企業村・桑村・絹村が発足しました。昭和生井村・寒川村・豊田村・中村・穂積施行さ明治れ、22(小1山8町8・9大)谷年村に・間は々町田村村制・がたのです。地との結びつきはさらに強まっていっには水戸線が開通し縮されました。明治、周22( 21(18辺の絹織物産には両毛線が、明治1889)年上野までの所要時間は2時間8840分)に年短した。翌年には利根川に鉄橋が架かり東北本線が開通し、小山駅も開業しま(通18手8段5を)も年たにら大し宮まと宇し都た宮。を明結治ぶ18文明開化は鉄道という新たな交併しました。宮の2県となり、翌年には栃木県に合廃藩置県を実施。下野国は栃木、宇都した新政府は明治4(1871)年にでも激戦が繰り広げられました。勝利大政奉還の後も戊辰戦争が続き、小山その後、討幕運動は激しさを増し、を遂げていきました。種業が回復し、関東有数の産地に成長地区を中心に、一時は途絶えていた蚕発展。小山市域でも結城に隣接する絹み付けさせて各地に販売するもの)も女生徒(昭和初期)下生井尋常小学校の児童(明治後期)電話交換台(大正4年)結城街道跨線橋開通式(大正10年)昭和3年頃の小山駅絹村役場小山青果市場(昭和6年)蚕の飼育(昭和5年)かんぴょうむきの様子(明治42年)25