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小山評定と小山御殿

印刷用ページを表示する更新日:2022年3月4日更新 <外部リンク>

小山評定(おやまひょうじょう)

小山評定は、徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議で、一説によれば、慶長5年(1600)に、ここ小山の地で開かれたといわれています。
徳川家康は7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置きました。その時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したのです。これが世にいう「小山評定」です。

小山評定跡碑   小山評定碑

 市指定史跡小山評定跡

 

「小山評定」により東軍が結束


家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、大坂に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。
このとき、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言しました。一豊の建議が諸将の気持ちを動かし、家康支持で固まったのです。家康は、特にこの時の一豊の建議を、「古来より最大の功名なり」と激賞しました。
こうして、家康率いる東軍は、石田三成討伐するため西上することに決したのです。

 

東軍の勝利を決定付けた「小山評定」


9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県)に東西両軍20万の大軍が相まみえて天下分け目の一大決戦が行われ、東軍が勝利したのでした。関ヶ原の戦いの直接の勝因は西軍小早川秀秋らの土壇場の寝返りといわれていますが、西軍が当初から足並みが乱れていたのに対し、東軍は固く結束していました。
東軍にこの結束をもたらしたのがこの「小山評定」であり、歴史上最も重要な軍議の一つと評されています。

 市民劇団「開運座」による小山評定再現劇の様子  小山市民劇団「開運座」 による小山評定再現劇   

 

         

 

 

小山御殿

徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所として建てられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの直前に行われた「小山評定」の吉例にならったともいわれています。
徳川家康は元和2年(1616)4月17日に没し、翌年日光東照社(後の日光東照宮)にその遺骸が改葬され、一周忌が営まれます。
それ以来、日光は徳川将軍家の聖地となります。将軍家の日光社参は19回に及び、なかでも三代将軍の家光は10回も社参を行っています。
小山御殿は、かなり厳重な配置になっており、周囲に堀を廻らし、土塁を二重に築き、敷地内には16ヶ所もの御番所が設けられていました。
将軍家の日光社参は寛文3年(1663)に4代将軍家綱が行って以降、八代将軍吉宗が享保13年(1728)に再開するまで財政難を理由として途絶えてしまいます。
この間、台風によって建物の一部が壊れてしまったこともあり、小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体されてしまいました。

小山御殿の復元図 小山御殿復元図 河東義之氏監修

小山御殿広場

「小山御殿広場」は、小山市役所の北側にあり、祇園城の御殿曲輪にあたる範囲で、一般公募により命名されました。
小山御殿広場は、歴史を学ぶ場であり、文化活動やさまざまな学習・体験の場として活用することができます。
中世小山氏の重要な遺構を保存することはもちろん、中心市街地に残された貴重な自然空間として、歴史案内とまちづくりの拠点となるように、今後の活用も十分考慮して整備が行われました。
調査により確定された「小山御殿」の建物配置や、周囲に造られた堀や土塁を平面表示するため、色分けをしたインターロッキングや着色コンクリート舗装を行いました。これは、雨水を素早く地下に浸透させる機能も併せ持つ自然に優しいものであり、高麗芝とあいまって、自然な空間を作り出しています。

 

小山御殿広場  小山御殿広場

 

小山御殿広場(航空写真)  小山御殿広場(航空写真)