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  • 【更新日】2022年12月12日
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寺野東遺跡について

国指定史跡 寺野東遺跡

国史跡寺野東遺跡は、平成16年(2004年)10月に「おやま縄文まつりの広場」として開園しました。
環状盛土遺構や水場遺構、石敷台状遺構が復元され、併設されたガイダンス施設では、発掘された貴重な遺物の数々や模型、映像などを通して遺跡についてやさしく学ぶことができます。

寺野東遺跡ガイダンス施設

寺野東遺跡ガイダンス施設

寺野東遺跡とは

寺野東遺跡全景

寺野東遺跡全景(発掘調査時のもの)

寺野東遺跡は、小山市東部の絹地区にあります。
ここは、田川の西岸の台地に広がる遺跡で1990年からの5年間、工業団地造成にともなう発掘調査が行われました。
この調査の結果、旧石器時代から平安時代までのムラや墓地であったことが分かりました。
この中でも特に注目された縄文時代の様子について紹介します。
まず、縄文時代中期前半から後半(4600年から4300年前)に東側の台地に径およそ190メートルの範囲の大きなムラが営まれました。
竪穴住居跡74軒と木の実などをたくわえた袋状土坑がたくさん見つかりました。

遺構とムラの様子

遺構とムラの様子

後期初頭(4000年前)になると、ムラの規模は小さくなり、やや低いところに営まれるようになります。
このころに水場遺構がつくられます。
木の実のアクぬきを目的とした水さらしの施設が見つかったことにより、後期には谷の水を積極的に利用し始めたことが分かります。
後期前半から後半(3800年から3000年前)になると、村は谷の東西に営まれます。
東側には、関東地方では初めて確認された巨大な環状盛土遺構がつくられます。
これは、後期前半から晩期前半までのとても長い間つくり続けられたものです。
また、谷の小川から見つかった木組遺構は、多くが後期後半から晩期にかけてつくられたものです。

発掘された遺物の数々

発掘された遺物の数々

晩期(3000年から2300年前)のムラは、環状盛土遺構内側のけずられた部分に営まれたようです。
また、小川の中にはひときわ大きな木組遺構がつくられました。
大型の木組遺構はトチの実のアクを取りのぞくための施設と考えられます。
このように、寺野東遺跡は縄文文化の水準の高さを実証する貴重な遺跡であるため、1995年11月8日、国史跡に指定されています。

寺野東遺跡の遺構について

環状盛土遺構

環状盛土遺構

環状盛土遺構

環状盛土遺構は、南北約165メートル、幅15メートルから30メートルの半円形の盛土部分と、その内側のくぼんだ部分からなっています。
もとは円形であったと思われますが、その後の河川の浸食や用水の掘削により東側半分はけずられてしまいました。
環状盛土遺構は、縄文時代後期前半(3800年前)から晩期前半(2800年前)にかけて、ドーナツ状に土を盛り上げてつくったものです。
盛土に使われたのは内側をけずった土で、その量は大型トラック約1,500台分と考えられます。
盛土の内側は、土をけずり取ったため、皿状にくぼんでいます。盛土の高さは最も高いところで約2メートルです。
盛土は現在、4つの部分が残っており、それぞれの間はとぎれています。

環状盛土遺構の4つの部分

環状盛土遺構の4つの部分

盛土の中やその下からは、住居跡や埋甕(子どものお墓)も見つかりました。
そのほかにも、土偶や耳飾り、石剣・石棒などとともにたくさんの土器片や石器が出てきました。
さらに、イノシシ・シカ・魚・鳥の骨片、焼けた土や炭も出土しています。
なぜ盛土がつくられたのか、今のところよく分かっていません。
長年にわたって家を建てる場所を平らにした残土や、家がこわれたあとに土器のかけらなどを捨てながら土を盛り続けたのかも知れません。

環状盛土遺構の様子

環状盛土遺構の様子

水場遺構

水場遺構

水場遺構

縄文時代の寺野東遺跡には、幅10メートルから15メートルの小川が流れていました。
しかし、水量が少なかったため、水をひき込む施設をつくりました。
小川の斜面を大きくけずりこみ、水をひき込む場所と平らな作業スペースを設けました。
これが水場遺構で、縄文時代後期初頭(4000年前)につくられました。
水場遺構は、幅12メートル、奥行き約17メートルで、「U」の字状に小川から掘りこまれています。
この掘りこみの上部には、幅約30センチメートル、深さ20センチメートルから30センチメートルの溝が、「U」字状の掘りこみを囲むように掘られています。
溝は斜面の上から土砂や雨水などが作業場に直接流れ込むのを防ぐための工夫と考えられます。

水場遺構の想定図

水場遺構の想定図

水場遺構出土のクルミ

水場遺構出土のクルミ

また、水ぎわには杭の跡と思われる小さな穴が並んだ状態で見つかっています。
この穴の周りや小川からは、クルミなどの種がたくさん見つかっています。
これは、この場所で食べ物を調理したときの残りものかも知れません。

木組遺構

木組遺構

木組遺構(発掘当時の様子)

縄文時代の寺野東遺跡には、幅10メートルから15メートルの小川が流れていました。
はじまりは環状盛土遺構の北西部にある湧水点で、水場遺構へと続いていました。
木組遺構は水を利用するためにつくられたものです。
縄文時代後半後期から晩期中頃(3000年から2500年前)の木組遺構は14基見つかりました。
木組遺構には、正方形の木枠を中心にして、まわりに木や小石をしきならべたものや長方形の木枠を川底につくり、この中にしきりを設けたものなど、いくつかの形があります。

木組遺構の模型

木組遺構の模型(ガイダンス施設内)

これらの木組遺構は、環状盛土遺構の盛土ブロックがとぎれる2ヶ所のくぼみの近くに集中してつくられています。
木組の90パーセントはクリの木が使われています。
木組遺構の内側や周りからは、トチの実などの植物の種や皮がたくさん見つかっています。
このことから木組遺構は、木の実のアクを抜くための水さらしの施設であったと考えられます。
縄文時代の小川から、水を利用した施設がこれほどまとまって発見された例は、全国でも寺野東遺跡だけです。
ここで見つかった木組遺構は、縄文時代の水利用の方法や当時の食生活を知るための貴重な資料です。

石敷台状遺構

石敷台状遺構

石敷台状遺構

環状盛土遺構の内側の中心から少し北によったところに、長軸22メートル、短軸17メートルの楕円形の高まりがあります。
この高まりには石を敷いた部分があるので、石敷台状遺構とよんでいます。
石敷台状遺構のまわりは、盛土をつくるためにけずられましたが、ここだけ意図的に残されました。
その結果、現在のような高まりになったと考えられます。
石敷に使われた河原石の大きさは、径10センチメートル空20センチメートルくらいのものです。
石敷は全面でなく、いくつかの部分に集中して敷かれたようです。

石剣・石棒

石剣・石棒

この遺跡からの遺物は少なく、縄文時代後期から晩期の土器片と石剣、土偶が数点見つかっているだけです。
この遺構がどのような目的でつくられたのか、よくわかっていません。
しかし、長い間つくられ続けたことや石が敷かれていたことなどから、環状盛土遺構の中でも特に重要な場所であったと考えられます。

体験コーナー

縄文土器パズル

縄文土器パズル

ガイダンス施設には、「縄文土器パズル」、「耳飾りをつけて見よう」の体験コーナーがあります。
縄文土器パズルは、一定時間に完成しないとくずれてしまいます。
子どもたちに大人気のこのパズル、あなたは無事完成することができるでしょうか?
ぜひ挑戦してみてください。

寺野東遺跡公園内の様子

寺野東遺跡公園内の様子

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