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小山市の文化財一覧 ≪国・県指定史跡≫

印刷用ページを表示する更新日:2021年11月22日更新 <外部リンク>
  • 指定年月日
  • 面積
  • 種別
  • 所在地所有者

琵琶塚古墳

  • 大正15年2月24日
  • 57,788.94平方メートル
  • 国記念物〔史跡〕
  • 飯塚小山市他

大字飯塚655番地ほかに所在する琵琶塚古墳は、思川と姿川の合流点を南に望む台地上に立地し、史跡摩利支天塚古墳と寄り添うように築かれている。現在は大半を樹林に覆われ、後円部墳頂に祠が祀られている。
昭和53・54年度に範囲確認の発掘調査が行われ、二重に周溝をめぐらす栃木県下最大級の前方後円墳であることが分かった。墳丘は後円部が3段、前方部が2段に築かれ、長さ123.1メートル、後円部径74.2メートル、後円部高11メートル、くびれ部幅40.2メートル、くびれ部高7メートル、前方部幅64メートル、前方部高8.5メートルである。また、内側の周溝と周堤は非対称で北側が鍵穴形、南側が盾形にめぐり、外側の周溝を含めた全長198.9メートル、幅150.7メートルとなっている。
下段墳丘の幅広い平坦面では、大型の円筒埴輪が列をなし、その特徴からは、摩利支天塚古墳に続く6世紀中ごろに築かれた下毛野第2代目の王墓と考えられる。
参考)小山市教育委員会『琵琶塚古墳発掘調査報告書』1994年

琵琶塚古墳
航空写真:琵琶塚古墳(下)

摩利支天塚古墳

  • 昭和53年7月21日[追加]平成14年9月20日
  • 41,509.23平方メートル
  • 国記念物〔史跡〕
  • 飯塚小山市他

琵琶塚古墳の南方200メートルに築かれた前方後円墳で、後円部の墳頂に摩利支天社が祀られている。
昭和55~58年度にかけて行われた範囲確認の調査では、琵琶塚と同様に周溝を二重にめぐらすことが明らかになり、琵琶塚に次ぐ栃木県下最大級の前方後円墳であることが分かった。
墳丘は後円部・前方部とも2段に築かれ、前方部の先端が「剣菱形」と呼ばれる特異な形状を持つ可能性がある。墳丘の長さ120.5メートル、後円部径71.1メートル、後円部高10.9メートル、くびれ部幅34.5メートル、くびれ部高5.4メートル、前方部幅82.5メートル、前方部高7.9メートルになる。
また、周溝と周堤は左右対称の盾形を示し、全長は197メートル、幅156メートルに達する。墳丘下段の平坦面には、高さ70センチメートルをこす円筒埴輪の列がめぐり、幅広い平坦面となる前方部コーナーからは、人物埴輪や馬形埴輪が出土した。本墳は、琵琶塚古墳に先立つ西暦500年前後に築かれ、下毛野国の中心地が思川筋に移動した時の初代首長墓と考えられる。
参考)小山市教育委員会『摩利支天塚古墳』1983年

摩利支天塚古墳
航空写真:摩利支天塚古墳(上)

乙女不動原瓦窯跡

  • 昭和53年5月11日
  • 6,124.78平方メートル
  • 国記念物〔史跡〕
  • 乙女小山市

奈良時代(8世紀中頃)、日本三戒壇の一つであった下野薬師寺や下野国分寺などに供給する瓦を製造した窯跡である。発掘調査により、4基の窯、瓦の成形を行った工房、材料となる粘土を掘り出した採掘坑、窯の中にたまった灰を掻き出した灰原などの遺構が確認されている。瓦窯は、当時としては最新式であった有牀式平窯の形をとり、焼成室にはその底面に、ブロックで6条の土手と7条の溝を作り、室内に熱が均一に行き渡る工夫がされている。蓮華文様の軒丸瓦、唐草文様の軒平瓦など多数の瓦が出土している。平成10年に史跡公園として整備され、「乙女かわらの里公園」として開園した。

乙女不動原瓦窯跡

小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)

  • 平成3年3月12日(鷲・祇園)[追加]平成13年8月7日(中久喜)
  • 68,605.56平方メートル(鷲)66,259.21平方メートル(祇園)79,189平方メートル(中久喜)
  • 国記念物〔史跡〕
  • 外城・城山町・中久喜小山市他

3つの城跡は、鎌倉期以来下野守護職を務め、小山を拠点に活躍した関東有数の武士団、小山氏の主要な居城跡である。鷲城、祇園城は、南北に約2キロメートル離れた思川東岸の河岸段丘上に存在し、東国における最大の内乱といわれた小山義政の乱(1380~1382)ではともに主戦場となった。

鷲城跡

鷲城は空堀と土塁によって画された内城と外城からなり、内城は東西280メートル、南北200メートルの規模で、その中心部に鷲神社を祀っている。南北朝時代の城として、現在でも良好な状態で保存されており、中世城郭を知るための貴重な遺構となっている。

鷲城跡

祇園城跡

祇園城は、小山の中心市街地にあり、東西500メートル、南北1200メートルの広大な規模を誇る城郭である。築造年代はわかっていないが、義政の乱後に、小山氏の中心城郭となったと考えられている。場内に京都祇園牛頭天王社(現 八坂神社)を祀ったところからこの名がある。

祇園城跡

中久喜城跡

中久喜城は市の東端の舌状台地の上、茨城県との境界に位置し、小山市の結城方面への備えとなった城である。城跡は2つの曲輪からなっており、土塁や堀がくっきりと残っている。義政の乱で足利氏満軍と対峙して敗れた際、小山氏は鷲城、祇園城、新城、宿城、岩壺城の5つの城を開城したと記録があり、このうち、岩壺城が中久喜城に該当すると考えられている。初めは小山氏の支城だったが、その後結城氏の管理下におかれ、天正18年(1590)には隠居した結城晴朝が入城し、慶長6年(1601)の越前転封までその居城となっている。かつて祇園社も小山氏菩提寺の天翁院(かつて万年寺)も中久喜にあったとされ、小山氏の歴史を考えるとき、中久喜城は重要な意味を持っている。

中久喜城

寺野東遺跡

  • 平成7年11月8日
  • 22,235平方メートル
  • 国記念物〔史跡〕
  • 簗小山市

平成2年(1990)に小山東部工業団地の造成に伴い発掘調査された遺跡である。市内で最も古い人類の痕跡である旧石器時代の3万2千年以上前のものと考えられる石器から、縄文時代の大規模な集落跡、6~7世紀に築造された古墳、奈良・平安時代の集落跡などが確認されている。このうち、縄文時代後期から晩期に及ぶ、1000年ほどの期間をかけて形成されたと考えられる径約165メートルのドーナツ形をした環状盛土遺構や、木の実のアク抜きに利用したと考えられる縄文時代後期の水場遺構は特に注目され、縄文時代に小山で生きた人々の生活を知る上で貴重な発見となっている。

寺野東遺跡

千駄塚古墳

  • 昭和28年11月10日
  • 県指定記念物〔史跡〕
  • 千駄塚浅間神社

思川東岸の段丘上に築造された古墳で、県内でも有数の規模を誇る円墳である。墳丘の直径は約70メートル、高さは10メートルで2段築成で造られ、墳丘の周りには幅15~20メートルの周溝が二重にめぐらされている。埋葬施設は確認されていないが、6世紀末~7世紀初めの築造という見方が強い。その規模からして千駄塚地区に分布する千駄塚古墳群の主墳といえる存在である。
墳丘の頂上に浅間神社を祀り、別名浅間山古墳とも呼ばれている。

千駄塚古墳

愛宕塚古墳

  • 昭和32年6月30日
  • 県指定記念物〔史跡〕
  • 城東愛宕神社

思川東岸に広がる台地の中央部に築造された円墳である。単独墳の形をとる。墳丘の直径は45メートル、高さ約10メートルで、頂上には愛宕神社が祀られている。墳丘は裾部から墳頂部にかけて急峻に立ち上がる形をとっているが、その点は千駄塚古墳と類似している。

愛宕塚古墳

毘沙門山古墳

  • 昭和32年6月30日
  • 県指定記念物〔史跡〕
  • 中里個人

思川の西岸、巴波川とに挟まれた寒川地区にはこの古墳をはじめ、茶臼塚古墳・鶴巻山古墳・三味線塚古墳などが点在し寒川古墳群を形成している。毘沙門山古墳は群中で唯一現存する帆立貝式の前方後円墳である。墳丘裾部が削られているため正確な規模は不明だが、墳丘の推定全長は41.2メートル、後円部径34メートル、高さ5.18メートルで、周溝の幅は約12メートルである。周溝からは、壺、甕、高坏形の土師器が出土しており、この土師器によって本墳の年代は5世紀末に位置づけられている。

毘沙門山古墳